福原邸跡の史跡紹介

 

福原邸跡は、毛利藩の永代家老で、萩屋敷に常住する福原氏が(上級家臣は萩常住が義務づけられた)萩毛利氏(藩)から寛永2年(1625)に与えられた所領(厚狭郡宇部村、山中村、小串村、川上村、吉敷郡白松の内)の領政(政務)を行う為に置かれた場所で、領民はこの屋敷を御田屋(おたや)、御館(おたて)と呼んだ。領政は、在地の家老が代行し、日常の用務は自宅で処理した。11代約240年にわたり宇部を治めてきた福原氏の業績は、鵜の島開作、常盤池築造、新川(真締川)開通などがあり、耕地が増え12,000石にもなった。昭和51年4月、宇部市は、福原邸跡を整備し、福原史跡公園として一般に開放。屋敷門は萩堀内の本屋敷の正門(県指定文化財)を再現(⅔の大きさ)、正面の石段の一部には、戦前神原公園にあった「福原越後公銅像」(戦時中供出)の礎石が使われている。(昭和43年、神原公園整備改修のため撤去移転)福原氏は、代々毛利氏に仕え、江戸時代には萩藩の永代家老として毛利一門六家に準ずる処遇を受け、禄高8000石(後に、高11,131石に加増)を給された毛利氏累代の重臣であった。福原氏と毛利氏は、鎌倉時代に興った武家で、ともに大江広元の後裔で、福原氏は広元の次男・長井時広、毛利氏は、広元の四男・毛利季光(もうりすえみつ)を祖とする。長井時広、毛利季光は共に鎌倉幕府に評定衆として仕えた。(大江広元:源頼朝に仕えた公家出身の武士 頼朝の謀臣として鎌倉幕府の開府に貢献)永和元年(1375)、討死した5代長井貞広の後嗣として、44代毛利元春の五男広世が長井家の家督を継ぎ、居城鈴尾城の所在地名福原を名乗り、庶家(宗家ないし本家より別れた一族のことをいう。嫡流に対し庶流の家柄)として毛利氏を支えた。


毛利氏の祖である阿保(あぼ)親王は「一品」(いっぽん)の称号を得ていたため、毛利家の家紋は一文字三星(一に三ツ星)で、福原氏は、ニ文字三星紋であるが、日頃は片喰紋を使った。


福原家文書に伝来する「御田屋(御館)之図」〈寛政10年(1798)頃の物〉によれば、二階建てで、藩主斉房が、湯治と称して領内を視察した折、ここで昼食、休憩をとったという記録がある。


また、大正10年(1921)~昭和14年(1939)まで、管理人である祖父国司龍江と共に居住した宮本二三男氏の記憶により作図された物によれば、邸総地積 9,600 m2 (約2,900坪)  建坪  86坪。邸内の井戸、祠(稲荷社、護様)、樹木が往時を偲ばせる。 


宇部観光コンベンション協会 (YouTubeより)