01.  常盤用水路

常盤湖に、かんがい用と工業用の水を安定確保するため、厚東川の末信から取水して、長尺りから常盤湖に入水させるための工事を県が計画、昭和13(1938)年3月に着工、昭和18(1943)年3月に完成した。所要県費114万円。

水路は、 全長 : 8.3km  幅 : 2m  深さ : 1.5m。

開渠=ふたをしていない水路。 16か所 

暗渠=地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路。 4か所 

トンネル=6か所 

架樋(かけとい)=川の上を跨ぐ水路施設。 5か所

サイホン=水路が河川、道路などの障害物を横断する際、その下に設けられる導水管のこと。大気圧を利用して排水する際のパイプ。 5か所

厚東の末信 ~ 中山の廣福寺 ~ 小羽山の蛇瀬池横 ~ 西山 ~ 琴崎八幡宮 ~ 山門 ~ 常盤長尺り ~ 常盤池 へと入っている。 


02.  琴崎八幡宮

・貞観元(859)年 僧の行教(ぎょうきょう)が御舟で大分県宇佐八幡宮(現:宇佐神宮)より御分霊を京都石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に御勧請の際、海上の時化のため、宇部郷琴芝の浦に寄航し、御分霊をこの地に留めました。里人は御神徳を景仰して琴芝村八王子に祠を建立し、霜降城(しもふりじょう)城主厚東(ことう)氏からも城南の鎮守として代々尊崇されました。

・寿永(じゅえい)三(1184)年厚東氏七代目・武光(たけみつ)が長門国(ながとこく)守護職に任ぜられると、その地を訪れ、新たに社殿を建立するよう命じ、社地は西の宮に遷され社殿を造営し祭事を奉仕し代々崇敬されました。

・のち、大内弘世(おおうちひろよ)が長門国守護職となり、永和三(1377)年僧の性禅(せいぜん)と祀職の豊住(とよすみ)がご神託を受けて西の宮から琴崎の地に奉遷されました。これが現在の社地であります。宮碑を現代文にすると『松の木や葉が生い茂り、三面海に囲まれた岬(崎)の形は琴のようで、波の音と松を通りぬける音がまるで琴の調べのように調和している。地名は琴崎という。私(豊住・当時の宮司)が思うに、清浄な地で景勝地である。よってここに社殿を建立するに絶好の地である。』となります。

・藩主毛利氏の崇敬は更に篤く、永禄九(1566)年社殿造営にあたり、毛利元就(もうりもとなり)は笠雲禅師(じくうんぜんじ)を参拝させ寄進されました。領主福原(ふくばら)氏は代々崇敬篤く、社領を献じ、元禄十(1697)年には、福原広頼(ひろより)が社殿を改造し奉られました。福原越後公(えちごこう)は、常に当社に参籠(さんろう)し国事の遂行を祈請(きせい)されたと記録に残ります。

・明治六年に郷社に列し、大正十四年、参宮通り(国道490号)と呼ばれる当宮から海へと一直線に続く道は瀬戸内海を航行する船からも八幡様が見えるようにとの願いから造られました。

・昭和十一年三月には、壮麗なる「三間社流造り」の現社殿が新築され、境内外も整備拡張されました。

・昭和十三年縣社に列せられましたが、戦後、社格制度廃止に伴い、それに代わるものとして特別な神社が別表に掲げられて別表神社と位置付けられ、当社も昭和四十一年七月に別表神社に昇格加列されました。

・885種類以上の御守り・お札があることでも有名です。(2021年1月現在)


03.  渦橋

寛政6(1794)年に造られた御影石製の反り橋で、太鼓橋風であり下を流れている時雨川が渦を巻いている様子が良かったのか、当時は関西の三名橋(※松江の大橋、瀬田の唐橋、渦橋)の一つとして村民の自慢だった。昭和59(1984)年3月、時雨川改修工事により、朱塗りで擬宝珠(ネギの花の形をした飾り)付きの渦橋に架け替えられた。旧渦橋は大小路自治会の有志らによりお旅所の下に移設復元されている。欄干の下には天保15(1844)年に石垣を組み替え橋の幅を広くしたことが刻まれている。現在は石段の幅に合わせてあり、残りの一部が付近に置いてある。平成15(2003)年に、国道490号線沿いの琴崎(﨑)橋が架け替えられたが、平成22年、壱千七百年式年大祭記念事業として御旅所入口の石段等を修復、琴崎橋の親柱(大正13年12月)もそばに移設された。


04.  お旅所

琴崎八幡宮の秋季大祭・本殿際(10月15日)の次の日曜日に御神幸祭(ごじんこうさい)が行われている。御神輿(おみこし)は、かつて宇部本郷(琴芝、梶返、恩田[山]、草江、中村、丹太郎、中尾、大小路)と、川上、小串の合計10組(または11組)の氏子により行われていた。三基の神輿を氏子が担いで本殿を出御(しゅつぎょ)し、このお旅所の台座に奉斎して神事が行われる。ここにあった狛犬は、八幡宮に移された。なお、地元では「お休み殿」とも言います。


05.  申田彦(さるたひこ)

「申田彦(さるたひこ)大神」と刻まれた石をまつったお堂がある。猿(申)田彦は道案内の神さまであるが、後世、道祖神と結びついて、旅行安全、縁結び、子授け、安産を願う神とされた。ここでは、特に「こつりの神」として咳が出るとき線香と竹筒にお酒を入れてお参りすると咳が止まるといわれている。

※咳が出ることを方言で、こつる と言う。


06.  大歳神社跡

今からおよそ320年前飢饉がおき、元禄11(1698)年十月十三日に山口の大歳神社から豊作をもたらす農業の神(大歳神)を勧請した。享保13年(1734)の防長地下上申によると、壱間(1.8m)四方の茅葺南向きのお堂が現在の国道490号線のすぐそば(現上宇部交番辺り)にあった。 

※防長地下上申 : ①石高その他 ②由来 ③境目書など村の明細書を藩に報告したもの

12月27日には「大歳の市」(大小路の市)がたち、おもちゃの弓や矢、数の子、墨、筆、すくもの入った手毬等正月用品が並べられ、子どもたちにとって一年で一番楽しい時だったとか。明治6年に本郷若連中が奉納した幟(長さ7m、那須与一が扇を狙った絵)が、大小路自治会館の木箱の中に大切に保管されている。明治42年、小さな神社は整理で取り払われ、鳥居の石は大小路自治会館の幟柱に使われた。

琴崎八幡宮二の鳥居 参宮通り 大歳神社の森 宇部市史通史篇下巻より


07.  道標(みちしるべ)

東  床浪 小郡  

西  新川 小の田 

北  川上 木田 舟木

 

明治28年6月 久保田松江建之


08.  河内様

水の神、農業の神をまつる。


09.  清水(きよみず)寺跡

かつて、京都清水寺を本寺とした真言宗の連照山清水寺という、坊数が30もある大きな寺院が山門(やまかど)にあったと伝えられる。享禄5年(1535)の中国九州御祓賦帳(おはらいくばりちょう)に、清水寺の名があるが、その後廃絶した。 

※ 中国九州御祓賦帳 : 中国九州を廻った伊勢神宮の御師(おんし)が守り札を配付した記録資料

宗隣寺所蔵の文書によれば、宗隣寺の前身普済寺の門前の海中に、夜々光明を放つものがあり、網を引いて引き上げると仏師定朝の作になる本尊如意輪観音が発見された。霊験甚だ殊勝にして、日々の功徳量り難かったが、連照山清水寺に移され給うた。以後乱世が続き普済寺・清水寺共に大破し近くの一里塚の辺りの坂上何某の民家に預けられたのち、以前の普済寺の古跡へ松江山宗隣寺が建立したため、開基雲庵和尚によって再び宗隣寺に安置されたという。清水寺があった付近には、当時の五輪塔も寄せ集めてある。清水(きよみず)という小字名に残っており、門名が清水と言われる家も二軒ある。四方から清水が湧き出て蓮池もあったようで、今でも水が湧いている。

写真を募集中


10.  雨乞祈願成就碑

日照りが続いたため雨乞い祈願をし、皆が藁をもってきて「空を焦がそう」と千把焚きを行った。

※ 千把焚きは、その煙がやがて雲となって、雨を降らすと信じられていた。

三日目に雨が降り、開 ・山門 ・大小路の住民が雨乞い祈願が成就した記念の碑を、昭和8年9月墓地手前に建立。この年は水道が初めて3時間停水したという記録がある。


11.  佐々木向陽(ささき しょうよう)の墓

福原家の学問所(郷校)・菁莪堂の初代学頭の墓(1801~1863)。長崎の通訳の家柄に生まれ勝木圭甫という。少年時から経書をそらんじ、17.8歳の頃には六か国語に通じていた。天保三年(1832)江戸へ行く途中、難破して丸尾へ避難したが阿知須の江口茂兵衛に学識と人物を請われ、妹岸を貰い阿知須で子弟の教育をし傍ら医師をしていた。その名声が次第に高くなり宇部の晩成舎に招聘され阿知須と宇部間を往復して両地の子弟を教えることを楽しみとした。やがて宇部では晩成舎を廃し、福原家の邸内に菁莪堂という学問所(郷校)を建てることになり、その学頭として招こうとしたが、当時は領内の者でないと採用できない制度であったため、佐々木という人のいない家を継いで佐々木向陽(阿知須と東岐波との間にある日ノ山の別名向陽山に因む)と名を改めた。弘化3年(1846)、領主福原近江公は先生に中臣通格(一門に次ぐ寄組に相当する上級家臣)の待遇で学頭として招いた。指導は熱心、厳格であり18年の間、青年武士は皆先生の門下生で、その中から人材が輩出した。

 

 

  佐々木松墩(しょうとん)  : 荻野貞介、向陽の娘八重の養子 菁莪堂二代目学頭 

  大野修内  :  菁莪堂三代目学頭

  青木周蔵  :  外務大臣

  河瀬小五郎 : 英国全権大使

先生は、文久3年、11月15日、宇部に没した。享年63、上宇部山門不浪が池(ふろがいけ)の南の墓地に葬った。其の墓石の裏には、簡単な伝が記され、銘(人の功績を記したもの)が彫られている。

 

正面   向陽佐々木先生墓

 

左側面  先生姓は源(みなもと)、諱(いみな)は玷(てん)、名は景衝(かげひら)、字(あざ)は圭甫(けいほ)、通称並枝(なみえ)、向陽(しょうよう)は其の号也。父勝木氏、長崎の豪族にて、享和元年辛酉を以て先生を生む。先生壮歳にして防州鰺洲(あじす)に来る。時に本邑宇部の士、先生に請うて教を

 

後面   晩成學舎に受く。丙午三月邑君辟(め)し命じて俸秩を賜ひ以て菁莪堂教授となす。癸亥冬痰咳を疾んで卒す。実に文久三年十一月十五日の夜也。享年六十三。本邑不浪が池の南の陵に葬る。銘に曰く瓊浦(けいほ)の瓊(たま)、飛んで長陽に入る。

     ※ 瓊浦=長崎の古名、美しい玉(宝石)のように光り輝く海、港

 

右側面  潤々(じゅんじゅん)たる蕨(そ)の質、瑛々たる蕨の光、文理密察、山と高く淵と探し、徳量寛容、天と宏く海と涵(ひた)す。韜(たう)匱沽(う)らず、式(もっ)て清潔を全うす。其の質亡ぶと雖も、其の光何ぞ滅せん。

     ※ 韜=ゆみぶくろ つつむ   匱=大きい箱   沽=売買する


12.  佐々木松敦(ささき しょうとん)頌徳碑(しょうとくひ)

阿武郡須佐の小国剛蔵門下の俊傑 荻野時行(貞介)(1835~1885)は、幼い時儒学を治め、長じて吉田松陰の門下生となる。松陰から「此の者有志の人にて学力も之あり」と評されたほどの人物で、荻野時行が松陰を訪問した際、士道について討論に及び滞留が数日に亘った。松陰はこれを甚だ喜び、野山獄で起草した士規七則を書いて彼に渡した。それには通常の七ヶ条の終わりに更に士道について共に論じて喜ばしかった旨の四行が付け足されていた。これによって、益々感奮し、京都および江戸に歴遊、多くの師友を得て帰国したが、向学の精神やまず、当時名声の高かった佐々木向陽の門下生となる。菁莪堂学頭佐々木向陽は荻野時行(貞介)の人となりを認め、養嗣子として一人娘の八重と結婚させた。向陽が文久三年に没すると、佐々木貞介が二代目学頭に就任。元治元年(1864)4月、福原元僴は菁莪堂を廃して執事堂とし、新しく中尾に維新館を建て、佐々木貞介(松敦)を学頭にしたが、6月に福原元僴が京都に向かう際には参謀として従軍した。禁門の変の後、山口明倫館教授に任命される。廃藩置県後、京都府師範学校教諭となり、明治18年、京都で没した。佐々木向陽の墓の右隣に、頌徳碑がある。


13.  山門のお大師様(八十八ヶ所)

台座に文化三丙寅(ひのえとら)五月(1806)と刻まれた大きな弘法大師像が祀られているお堂は、平成18年4月に200年祭を迎えるにあたり改築された。外側に2列87体の御像が並んでいる。山門の有志が管理されており、縁日は4月21日。

※ 四国遍路八十八ヶ所は空海(弘法大師)ゆかりの仏教寺院を巡礼することを言うが、これらのお詣りには徒歩、船等で一か月以上かかる遍路参拝であったので、各地に小型の八十八か所を設けて四国詣りの代行の場とした。


14.  不老助(ふろすけ)溜池記念碑

風呂ヶ迫池(不老助溜池、不浪)の余水吐けから西北5mのところにある。文久2年壬戌(みずのえいぬ)春(1862年)竣工。明治四十年丁未(ひのとひつじ)(1907年)秋建立

石碑には「 千代かけて 波打ちたたへ池の名の 老せず水は〇か○○舞  源 信道 」と刻んである。

文久3年に没した佐々木向陽の姓が源であるので、この記念碑に刻んである歌は、先生の作であろう。


15.  渡り鎮守社

渡り地区の守護社。鳥居に文化十酉(とり)三月吉日(1813)、石の祠に寛政十一年(1799)とある。山門に、金次という盗賊の伝説がある。この人は義賊で人格も具わり決して近所の人に迷惑をかけず、ある期間家を留守にすると金銭財宝を持って帰って、その配当を部落の者に為すというので、非常に人気があった。後ついに罪に問われて処刑を受けたが、死後、部落の者は神に祭り「金次の森」と称している。


16.  道標(みちしるべ)

大正4年11月御大禮記念。開黒岩青年支会建立。

東  床波 丸尾

西  新川 居能

南  岬

北  井関 阿知須駅と刻まれている。


17.  薬師如来堂

この辺りを「湯場」と言い、古くから湧き出る水を利用していたが、この湯の守護仏として祀られたのが、薬師如来で、不動明王と大師を合わせ祀っている。 祭日は、1月8日。 説明板によると

・成田不動明王…佛堂建立に当り成田より入佛お迎え申し上げたもの

・一畑薬師如来…昔よりこの湯場で安置されていたるものにて施主不明

・大師如来…霊験あらたかなる四国の61番よりお迎え申し上げたもの


18.  八王子社

天照大神(アマテラスオオミカミ)が素戔嗚尊(スサノオノミコト)と誓約(うけひ)した時に出現したと言われる八王子神(五男三女神)を合わせ祀る。古来国家鎮護の神として各地に奉斎されて、契約の神、勝利の神として武家の崇敬厚く、かつ世俗の信仰に、この神を祀る所は、毒蛇の害が少ないと言い伝えがある。厚見氏の祖先が一日に何度もマムシに遭遇し、噛まれないよう守ってもらうために、文政8年(1817)、東岐波から「蛇の神様」として信仰のある八王子様を、邸内に勧請したと言われる。明治になり、小さなお堂は整理しなければならなかったが、山奥にあるので、池富士さんの屋敷内に隠して護った。その後、幾度か場所を替え、大正12年頃、現在地に移し、戦時中も開地区の皆さんがお祭りを続けていた。祭日は、12月第一日曜日。左の灯篭に慶應三卯吉日(1867)、右には五十年祭と刻まれている。


19.  経塚

高さ2mほどのピラミッド型に盛り土したもの。何時頃作られたか不明。文殊院(松月院の前身)の頃か、お寺の争いで分かれたお坊さんが、お経を石に書いて土に埋め、お経を唱えながら亡くなったとも言われる(即身成仏)。ある時、盗賊が宝物があるかと思い掘ってみたところ天井が落ちて発見された木箱の中に、お経を書いた小石が詰まっていたという。

※ 長さ3cm~9cmの青黒い扁平な石数千個に、小さなものは一字ずつ、大きなものは二,三字、あるいは四,五字ずつ経文を墨で書いたもの。

「経塚さま」と呼ばれ、戦後12月1日の晩に、演芸会をやっていた。8月7日の七夕は、前で麦藁を焼いていたが、ある年、火がとても大きくなり、消防団が来たことがあり、それから祭りが下火になった。線香を持ってお参りするとイボが落ちるとか、剣が埋まっているとか色々な言い伝えがある。


20.  黒岩観音

大正15年(1926)、松月院第21世住職道重上人の「山の中腹で清水の流れる場所に、開部落の守り本尊として観音様を建立したらよい」との勧めで、黒岩の有志が呼びかけ、内田氏の土地である現在地で境内の整地、付帯施設、本堂の建築を献身的に奉仕し観音堂を建立。子安観世音菩薩(子供の成長・妊婦の安産)、馬頭観世音菩薩(馬の守護)の二体を合祀した。その後、六角堂も建てられた。昭和45年、旧六角堂の老朽で新築。昭和57年4月、厚生年金センターの開設により観音堂(慈眼堂)の位置を少し南に移し新築。旧観音堂の右手に深さ1m弱の清水の受けがあり、手水鉢に導かれている。縁日は4月17日。黒岩山からしみ出る水はきれいで冷たく40年前までは豊富に流れていてイモリもたくさんいたそうだ。


21.  黒岩山

常盤湖の北側に位置する上宇部地区の最高点(88.1m)である黒岩山は、蛇紋岩でできた開地区のシンボル的存在である。かっては山頂から常盤湖の向こうに瀬戸内海や九州の山脈が見渡せる絶景のポイントであったが、現在は立木に覆われ昔の面影はない。厚生年金センター(現ココランド)ができた当時は、山頂に通じる遊歩道や東屋など公園として整備されていた。現在はやや荒れているが、ココランドから登山道を辿れば約10分で容易に登ることができる。国土地理院の2等三角点(8kmごとに設置)もある。

写真を募集中


22.  黒岩天神様

黒岩から片倉方面へ抜ける峠越えの旧道の脇道を北へ登っていくと天神様がある。ブロックとコンクリートでできた小さな祠に天神様と荒神様の二体が祀られている。地元の有志が浄財を集めて改築した際、側壁に謂れを掲げたが、それによると文化12年(1815年)に西にある天神山(同地と黒岩山との間にある小高い山)より運ばれ安置されたとある。毎年12月1日には例祭を行っている。


23.  周防・長門国境石

防長2国の国境を示す石が、黒岩天神様の裏にある。周防と長門の国境は、亀浦の鍋島から常盤湖東岸を経て、天神様が祀ってある稜線を通って北に向かっている。天神様の約20m裏にはいくつもの蛇紋岩が円形を描くように散らばっている所があるが、手前に平らで大きな岩(約1mX2m)を国境の目印としたらしい。地元の古老の話では、過去には直立していたが、周囲の立木の根により倒壊して、現在は横たわっている。