31.  京賀道路拡張記念碑

藪道を荷馬車が通れるほどに拡張した記念に地区民5軒で建立。昭和14年7月竣工、寄付者は上田只一。


32.  京賀のお大師様

四国八十八か所の十三番。明治初期にまつられた。縁日は4月21日。


33.  教念寺山

教念寺歴代の住職と室の墓がある。古い教念寺の地ともいわれる。


34.  荒神様

この辺りは、しばしば火事があり、火難よけの神としてまつられ、鳥居と社殿があったが、近年、琴崎八幡宮に合祀された。


35.  宇部中学校記石碑とケヤキ

大正9年(1920)4月、全国初の村立中学校として開校。宇部小学校の仮校舎で授業が開始され、9月、村役場の隣地に宇部村立中学校が新築された。造成工事に山門の有志が馬車で土を運んだ。第1回卒業生が石碑を建立。(大正12年県立中学校、昭和23年県立宇部高等学校に)宇部高等学校のシンボルのケヤキは宇部村役場からのもので、昭和37年の火事が原因で腐朽(ふきゅう)が進んでいたが、創立80周年記念事業で、樹木医により治療され元気を取り戻した。平成27年(2015)春に校舎が建て替わった際には、校舎側の枝ぶりが悪かったケヤキの枝を存分に張らすため、新校舎を北東に10mずらしている。

第28回UBEビエンナーレ新部門プロポーザル部門の第一号。事前に作品設置場所を指定、その空間に最適な野外彫刻プランを募集。世界12カ国、36件の応募の中から「創立100周年記念宇部高かたばみ賞 最優秀プラン」が選ばれた。「飛翔」がテーマ、高さ4.5m、幅3.7mのステンレス製、作者によれば「国内外で活躍する多くの人材を輩出する宇部高をイメージし、翼をモチーフに制作した。学校は、生徒たちの羽ばたいていくところ。自分の作品が、この学校の伝統の一部になることを光栄に思う」


36.  宇部村役場跡

明治12年(1879)、川上、小串、上宇部、中宇部、沖宇部を一つの行政区として宇部組戸長役場を丹太郎に設置。明治22年、市町村制施行により五つの村が合併し、宇部村役場を教念寺東側に設置。 初代村長は川津の山﨑峻蔵。大正10年(1921)宇部村が人口増加により市制をしき、宇部市役所となる。大正11年4月、常盤通りに新築移転。


37.  松絃山教念寺【浄土真宗本願寺派(西)】

<宇部市史>によると、釣鐘の文字から開基は、大内氏の家臣・兼安伝左衛門専正(かねやすでんざえもんもろまさ)で法名は正専(まさもろ)。妻の縁故で宇部に定住し文明14年(1482),教念寺を建立したという。<山口県寺院沿革史>によると、宮下若狭守正兼という武士が兼安伝左衛門専正と共に上洛して蓮如上人に帰依、法名をそれぞれ周信(ちかのぶ)、正専(まさもろ)と賜ったが正専が病没。これを悼んだ周信が、正専という法名を継ぎ、宇部に帰り小さな庵をむすんだ。<教念寺小史>によると、万治2年(1659)、本願寺から蓮如上人の御影を下付され、同4年、公儀より境内一丁余並びに門外寺領として畠3反余が免除された。延享元年(1744)、第10世恵明の時、十間四面の新堂が落成。文政8年(1825)、火災のため、本堂も庫裏も消失したが、すぐに再建し文政11年(1828)には、十二間四面の大伽藍ができ上った。この本堂が現存するもので、当時の宇部村1000戸の8割が門徒だった。徳海楼(位牌堂)には、宇部鉱業所沖ノ山、東見初、西沖ノ山、本山炭鉱の殉職者がまつられている。ナナミノキが本堂に倒れたり、古洞の陥没等により、建物が傾いた為、4年がかりで本堂、法務所、山門、鐘楼を修復し、平成27年(2015)完了した。


38.  寺の前

寛永2年(1625)、福原氏が上宇部中尾に館を構えた頃、家が集まっていたのは本郷(中尾、大小路)あたりだった。当時宇部には、教念寺、信行寺、松月庵、宗隣寺の四つのお寺があったが、江戸時代末から明治にかけて浄土真宗は「阿弥陀仏を信じればすべての人が救われる」と、門徒が急激に増えていった。教念寺にもお参りする人が多くなり、12月15日には、教念寺から宇部小学校(現在の上宇部中学校)まで、市が立ち、タラ、数の子をはじめ正月用品を買うため、近郷の人々が集まり、立すいの余地もない盛況だったという。明治20年頃までは、酢、豆腐、線香等を売る店のみで日用品は必要に応じて船木まで買いに出かけていたが、その後、「100均」のような一つが6文均一の店もでき、郵便局、酒屋等も店を出してきた。風呂屋と写真屋がないだけで、宇部村では初めての二階建ての旅館(ますや)もでき、ほとんどが瓦葺きだった。かつては「宇部の東京」とさえ言われたほど賑わった。教念寺の前は、床波・野中を経て中尾・居能・沖ノ旦に通じる道と、岬・恩田・梶返・山門・川上に至る道の交差点にあたる交通の要衝だったが、だんだん門前町として発達するようになった。


39.  教念寺境内樹林(宇部市指定天然記念物)

典型的な暖帯林でタブノキ、ナナミノキ、ヤブニッケイ、アラカシ、クロガネモチなど、20種類の木々がある。

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40.  ナナミノキ

モチノキ科、雌雄異株の常緑樹で、幹周り3m、高さ23mあり国内最大級と言われていたが、平成3年の台風19号で一番小さい幹が倒れ、その後平成16年の台風18号で他の幹2本も倒れてしまった。一時は若葉を付けていたが、その後枯れたため伐採された。(山口県指定天然記念物だったが指定解除)


41.  竹林山松月院【浄土宗】

建久7年(1196)、寂照法師(じゃくしょうほうし)が真言宗のお寺として「五台山文殊院(ごだいさん もんじゅいん)」を建立、文殊菩薩像(もんじゅぼさつぞう)を本尊とし、弁財天(べんざいてん)をあわせまつり、大切に守られていたが,その後、吉敷毛利家に嫁していた福原元俊(14代)の長女が亡くなり、三回忌が済んだ万治2年(1659)、位牌を宇部にまつることになり、それを機に浄土宗に改宗、本堂も改築して初代住職に浄誉了伝上人(じょうよりょうでんしょうにん)(厚東浄名寺(じょうみょうじ)を真言宗から浄土宗に改めた高徳の僧)を迎える。「玅壽院殿松月周永禪定尼 (みょうじゅいんでんしょうげつしゅうえいぜんじょうに)」という戒名から松月庵となる。 福原家の元家臣で現在は親戚である方の調査で350回忌にあたる平成19年、松月周永大姉のお墓が、萩市徳隣寺の福原家墓地内にあることがわかり説明版(石碑)を建立。明治44年(1911)松月院に改称。別堂にまつられている弁才天の縁日7月14日には、浄水でお金を洗い、浄銭を財布の種銭にする。今一休と呼ばれた第19・21世住職道重信教上人(みちしげしんきょうしょうにん)は、大正12年(1923)、浄土宗大本山の1つで徳川家菩提寺である東京の増上寺の法主(ほっす)(住職)となり、翌年には「大僧正」という最高の僧位になられた。※ 一休さん(一休上人)のように常識にとらわれない斬新な発想を持ったアイデアマンのお坊さんでもあった。道重上人が、木喰上人奉賛会の会長を務められた縁で、山梨からもらい受けて来られた阿弥陀如来像が一体、庫裏に安置されている。木喰五行上人の84歳の時の作で、あふれんばかりの微笑と生命力の感じられる不思議な像である。45歳から93歳で亡くなるまで日本国中を行脚され、期限を決め「木喰行」(五穀を食べず火食を絶ち、木の実・野草で飢えをしのぐ))を実践。各地で彫った木喰仏は、およそ520体。そのうちの一割にあたる52体は、山口県で発見されている。(二俣瀬の極楽寺に5体)平成21年7月の豪雨で屋根が傷み修理した際、足場を組み下の方の塗装も行ったので、一緒に山門も木材の色に塗装(以前は、子どもたちがピンクのお寺と呼んでいた)。


42.  鼓権現社(つづみごんげんしゃ)・祇園社跡

ごんげん様、おぎおん様と呼ばれていた。権現とは仏菩薩がすべての生き物を救うために、日本の神に姿を変えてあらわれた神。享保19年(1734)の「地下上申」によると小串の俵田政右衛門家の鎮守だったが、貞享年中(1685年頃)、鼓(つづみ)村に疫病が流行り、この祇園社に祈願したところ、すぐに霊験があり治ったので村中が大いに喜び、毎年の祭として6月7日、10月7日に催事を行ったという。灯篭は、慶応二年(1865)丙寅九月、厚見藤右衛門 が寄進している。琴崎八幡宮の末社だったが、いつ頃まであったか不明。


43.  火の神様

「元治元年甲子(1864) 今月今日 村中」と書いた祭の幟(のぼり)が保存されている。


44.  日切地蔵尊(ひぎりじぞうそん)

日数を限ってお参りすれば何でも叶えて下さるお地蔵様。大正10年5月建立。母子寮(現在のきらら交流館の辺り)に通じる道が完成したとき、地域の基金によって祀られた。信心があれば、無理な願い事もかなえられるといわれている。乳の出が悪い時とか、腫れ物に霊験があり、雨乞いにも立願されたこともある。


45.  厳島(いつくしま)神社・稲荷社

厳島神社(水の神様)、稲荷社(稲の神様)をまつる。江戸時代、水害に悩まされ大飢饉があった時、上宇部中学校と山大工学部との中間あたりの小高い所に稲荷を祀り、「沼をお守りくださいますように」と願うと、水害もなくなり稲も良く育つようになった。灯篭には、文政丁亥(1828年)沼村中と書いてあり、地域の方がお守りしている。祭礼は、4月の第一日曜日と10月の第四日曜日。