61.  中村地蔵尊

天和2年(1682)、福原広俊公(15代)が、大阪にて求められ、一晩の間に出来上がった名工の作であると伝えられる。そばに「一石一字経塋(いっせきいちじきょうえい)」と刻まれた経塚の碑がある。

(塋=墓)


62.  道標(みちしるべ)

往時の幹線道路で、上宇部村、中宇部村の境だった三叉路にある。

「右:中山 左:藤まがり」


63.  不動様・荒神様

文政10年(1827)、ある修験者が置いていったという不動様と、別の所にあった荒神様が一緒にまつられており、このため川津には火事がないといわれる。祠のそばに、長さ1m位の珍しいカンカン石(サヌカイト)がある。


64.  晩成舎跡

天保年間(1830~1843)、中村の信行寺の東の低地に23代福原親俊によって学校が開かれた。のちに晩成堂となる。


65.  経納山信行寺跡

風土注進案によれば、延徳2年(1490)、念正という僧が京都で蓮如上人の弟子となり、御真筆の六時名号を頂戴して宇部に帰り真宗の信行寺を建てたといわれる。当時からの梅の木が残っており、そばの中村公園の土地は信行寺から貸与されている。炭鉱で働く人々が多くなり、明治45年に、常盤町に移転。

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66.  京納の六地蔵

六地蔵は、極楽浄土への案内人として墓地やお寺の入口にあり、六道「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天」と呼ばれる六つの世界にいて、それぞれの世界に来た人間を救ってくださるといわれる。明治の終わり頃まで、山号が経納山の信行寺(現在は井筒屋裏)の墓地があった。宇部興産宮ノ原社宅の方々がお護りされていたが、宅地開発されて以後お世話する人もなくなった。


67.  蛭子様

福原広俊公(15代)が中村地蔵尊と一緒に大阪で手に入れた石像。最初は西の宮にまつってあったが、数度の移転の後現在地に。豊漁の神であるが、この辺りでは、主に農家がお護りしており、年2回の蛭子講で五穀豊穣、虫除け祈願が行われる。


68.  庚神様(こうしんさま)

鎌田橋の近くにあり、猿田彦大明神をまつる。日本神話で、天孫降臨(てんそうこうりん)の一行を天(あめ)の八街(やちまた)で出迎え高千穂の峰まで先導した国神(くにつかみ)。道案内の神様であるが、道祖神と結びついて旅行安全、縁結び、子授け、安産を願う神とされた。半年ごとに猿田彦大明神の描かれた掛け軸を家々で順番にまつっている。


69.  鎌田橋

真締川で最初にかかった橋、板橋から石橋になったときに,「かかるかかるよ 鎌田の橋は 橋はかからで石懸り(こくがかり)」と謡われた。江戸時代、宇部村と藤曲村を結ぶ重要な橋だった。


70.  鎌田井堰

真締川で一番大きな井堰。蛇瀬池の水とあわせ尾崎水路に流れ、小串・鵜の島開作へ送水。井堰は真締川へ最初に架かった橋として知られる鎌田橋より100m程度上流側にある。


71.  御手洗(みたらい)様

御手洗橋のたもとにある二つの祠(ほこら)のことで、右側が八王子。以前は東方の畑の中にあった。そこに八王子という地名が残っている。祠の外に、于時寛政八(1796)年丙辰八月吉日河津村中と刻まれている。左側が豊前坊(ぶぜんぼう)で修験道場として栄えた英彦山神社のこと。むかし、小場山(小羽山)の高い所から豊前の山々が一目で見えるのでおよそ240年前に勧請。のちにここへ遷(うつ)した。


72.  河(川)津寺跡

平安時代後期(西暦950年頃)から、厚狭郡東部に本拠地を置いて勢力を拡げ「厚東郡司」と名乗るようになったと思われる厚東氏の3代武通(たけみち)が川津寺を建立したと記録にあるが、何時できて何時まであったかはっきりしない。その後、村上家の居宅となっていたが現在はうっそうとして何も残っていない。井戸の枠が檜であったことや付近から五輪塔が出てきて松月院の寄せ墓に預けてあるそうだ。

※領主福原房純(ふさずみ)(21代)の命で、真締川掘削(1798年完成)の指揮を執った家老の村上清右衛門純明(せいえもんすみあき)の家。

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73.  民話の里

「沖田の鶴」伝承の地。ツルの夫婦愛物語で、高等女学校の国語読本にも出ていた。


74.  丹之山遺跡

丹之山という小高い丘の上で見つかった竪穴式住居跡(現在は平坦な住宅地)。平成7年4/10~5/2の発掘調査で、1500~1700年前(弥生時代~古墳時代)の供え物をのせる高杯(たかつき)やミニチュア土器が出土。古墳時代後期や室町時代の生活跡も発見。


75.  福原邸跡

「敷地面積9,600㎡(約2,900坪)。建坪86坪」毛利藩の永大家老で、寛永2年(1625)、宇部村ほか併せて8,000石の領地を与えられた福原氏の屋敷跡。萩で藩政の中枢にあり、所領の宇部の屋敷は、御田屋(おたや)、御館(おたて)と呼ばれた。大きな木がこの頃の面影をしのばせる。現在の門は萩の屋敷門(県指定文化財)を三分の二の大きさで模造している。11代約240年にわたり宇部を治めてきた福原氏の業績は、鵜の島開作、常盤池築造、新川(真締川)開通などがあり、耕地が増え12,000石にもなった。


76.  維新館跡(福原家の学館跡)

「推定4,600㎡(1,400坪)程度、建坪39坪」

・天保10年(1839)頃 

  晩成舎という学寮を中村に創設。

・弘化元年(1844)

  晩成堂となる。

・弘化2年

  阿知須から佐々木向陽(しょうよう)先生を招く。

・弘化3年

  中尾の福原邸に移され、菁莪堂(せいがどう)となる。

・元治元年(1864)4月

  福原越後公は、福原邸にあった菁莪堂を執事堂とし、萩の中屋敷を福原邸の南に移して維新館と命名された。7,8歳~12,13歳の寄宿生30名、通学生70人がおり、文学教育、武術教育(弓、馬、刀、槍術)、とりわけ軍事教練を重視し、西洋銃陣などの稽古には、一般の家臣も加わった。

・菁莪=人材を教育する事(詩径より) ・維新=すべてが改まって新しくなる事(詩径より)


77.  役神(やくじん)様

このあたりは、字名も役神と言い、国土開拓の神、医薬の祖神(薬神)として大国主大神(おおくにぬしおおかみ)、少彦名大神(すくなびこなおおかみ)をまつる。祭日には、線香をたて拍手(かしわで)を打つ神仏習合のなごりがある。


78.  宇部小学校跡

明治5年、学制が発布され、翌年、宗隣寺に仮の小学校が開校された。まもなく教念寺に移った後、明治7年、中尾の役神に宇部村で初めての小学校の新校舎が建つ。8間×4間(103㎡、31坪)藁ぶき平屋建て、児童数89人(内女子24人)。上宇部小学校校長室には、第3・6代の市長を務めた紀藤閑之介翁が86歳の時に描かれた宇部小学校の絵がガラスケースに保存してある。授業料を、毎月八厘(天保通宝1枚)を労務委員中尾竹下宅へ各自持参す。ある時、天保通宝が6厘に値下がりしたので、翌日2厘(寛永通宝2枚)を持参す。翌月からは8厘に復旧す。のちに、2銭8厘(1銭は、100円位)となる。宇部小学校第2期生紀藤閑之介(86歳)が昭和29年、上宇部小学校創立80周年記念式展覧会に出品したもので、写生図と建築平面図、付近地図が一枚の長い紙に描かれている。